公益社団法人岩手県猟友会

よもやま話

私の狩猟人生

雫石猟友会 新里幹夫

 私の狩猟のきっかけは、当時丁度中学生の頃、確か昭和37年ごろ兄貴が空気銃を二丁所持しており、一丁は平林間の中折れ、もう一丁はSKBのスコープ付で銃身の下部にテコがあり、それで空気を送り込む仕掛けで何れもスプリング式であった。兄はよく家の近くで雀を4~50羽ほど獲り、それを祖母が焼き鳥にして食べさせてくれ、大変美味しい焼き鳥であった。私の狩猟人生はこの頃から芽生えたと思われる。

 確か私が子供の頃は、空気銃を持ち歩いても何も言われず、雑誌でも販売されていて、誰でも所持でき、おおらかで今では考えられないような時代であったと記憶している。高校時代には銃が無いので狩猟にまったく興味が無く、普通の高校生で卒業し昭和42年に関東の大学に進学、1年生の頃は何事もなく過ごし、2年目あたりから学生運動が激しさを増し2~3年は学校がロックアウトされて行けなくなり、この後どうなるかと心配したが、やる事も無く何とかなるさーで、アルバイトに精を出した学生時代であった。

 ある日、アルバイトがない日に下宿でテレビを見ていたら、ちょうど狩猟番組をやっていた。犬が捜索しポイントして射手が見事雉を撃ち落とし、ハンターが犬から雉を受け取って頭をなでている場面を見ていたら、すっかり忘れていた中学当時の楽しい思い出がよみがえった。俺も何としてもハンターになりたいの一心で、その後すぐ確か渋谷の銃砲店に行き、銃を持ちたいと説明した。すると変な顔で店員に見られ、それでも熱心に話をして何とかして銃を所持したいと訴えたところ、店員がいろいろ説明をしてくれた。最初に講習会を受け、その後試験に合格したら警察に所持書類を提出し、さらに狩猟免許試験を受けてうんぬんと説明され、簡単に鉄砲を所持し狩猟ができると思っていた気持ちがへなへなと崩れ去った。そんなこんなで、すっかり気持ちが冷め諦めていたところ、その数ヵ月後にふらっと寄った書店で何気なく「狩猟界」という本を読んでみたら、まず狩猟ができないなら所持許可だけでも取り、後に狩猟許可を申請ということが書いてあり、それにヒントを得て、よし!卒業したら田舎に戻り狩猟免許を取ると決断し、諦めてほったらかしにしていた未完成の提出書類を作成、さっそく下宿のある神奈川県で所持許可を無事取得した。しかし何とか銃を手に入れたい気持ちを抑えきれず、所轄警察に行って話をしたら、最初から横柄な口の利き方をされ根掘り葉掘り聞かれた。「なぜ今銃がほしいのか、学校はどこか」と所持とは全く関係のない話をされ、何時間かかっても納得してもらえず、帰してもらえなかった。これには、本当に閉口してしまった。当時学生運動がもっとも激しい時で当然の事かもしれないが、結論は現時点でお前には所持許可は出せないというのである。最初からそう言ってもらえばいいものを、無駄な時間を費やしアルバイトは休み大変困った一日であったことを記憶している。警察では、私が学生運動をやっていて、銃を所持し利用しようと考えていると勘ぐっている様子だった。私は学生運動をやっていないことを説明し、そんな気持ちは全くなく単純に狩猟をしたいと力説してやっとのことで帰された。その後、学校から正式な学校封鎖を伝えられ、学校に行けなくなり、アルバイトでお金を稼ぎ鉄砲購入の資金にと本気で考えていた。

 そんなこんなで無事学校を卒業し、わが町に帰り昭和47年念願の狩猟免許を取得、足繁く鉄砲店に行きあれやこれや考え、最初から自動銃と決めた。当時自動銃の主流はブローバックだったが、当時は珍しい最新式のガスオートに決定し、念願のSKB自動ガスオート12番を申請、許可が下りるまでの間は長く感じ、ようやく手にしたときは嬉しくてすぐにでも背負って歩きたい気持ちに駆られたことを覚えている。その後狩猟申請し、昭和47年11月1日狩猟解禁までの期間は大変長かった。その間に狩猟をしている諸先輩方々の話を聞きたくて押しかけて話を聞いたり、射撃場にもよく行ったりもした。

 ようやく秋も押し迫り待ち遠しかった10月31日になり、当時犬を持たない近所のハンターの所に、鉄砲やら猟の話を聞きたくていたたまれなくなり、解禁前日にお邪魔した。夜9時頃に帰り、明日を考えて早く寝なければと思い床についても、興奮してなかなか眠れず何回も目が覚め熟睡できなかった。

 いよいよ解禁当日、昨晩とうとう寝付けず朝3時には目が覚めて所持許可・弾帯・鉄砲・おにぎり等準備し、近所の僚友宅に5時頃に到着、彼はまだ準備してなく結局6時10分に猟場に着いた。日の出が6時20分ごろと思うが、念のために6時30分から行動開始、犬もないので踏み出し猟である。バラが刺さったり、蔦に絡まり転んだりしたが、とにかく楽しかった。薄暗い朝もやの中、川沿いをしばらく歩いていたら突然オス1羽とメス3羽の雉が飛び出し2発撃ったら見事失中、対岸に飛ばれて諦めた。だんだんと時間が経ち、お日様も出て最高の猟日和になり、そのまま2時間ぐらい相棒が獲物がいる、と言う辺りを散策したがなかなか出会いがなかった。川の土手で昼食のおにぎりを僚友と食べ、それが他で食べるのと違い、なんとも美味しく感じられ、また寝不足だったのでウトウトとしてすごぶる気持ちがよかった。午後からは場所を変えて山鳥という事で、山際の田んぼの畔をしばらく二人で歩いたが出会いがさっぱり無かった。私がススキのボサボサで段差のある畔をヒョイと越えようとしたその瞬間、山鳥が8羽ガタガタという音と共に飛び出し、突然でびっくり慌てて、夢中で3発全弾発射、8羽が出たのに最後の1発が命中、しかも半矢だった。山鳥が田んぼをすごい速さで逃走、私も走りながら薬室に1発込め発射、また逃げる、また1発込めては発射、また1発込めて発射、相手がガクッときたが、とうとう最後に藪に入られて、あーあ逃げられたと思い、逃げ込んだ藪付近を目を皿にして探したら木の根っこにじっとしていたところを2mほどの近射でようやく仕留めた。テレビで言う、「とっだどー!」と叫びました。これが私の初めて正式に銃を持っての猟であった。それから数年後のある日、猟犬を持った方と出会い、彼が言うには「鳥猟は犬が無ければ全く面白くない。見せてやるからついて来るか?」ということで、一緒に共猟する事となった。ほどなくして犬の動きが活発になり、前にテレビで見たとおりに犬が行動するのを見て、やはりこれだ、と自分もすぐに犬を飼った。つい最近まで鳥猟主体でやってきたが、3年前に犬が死んでしまい69歳になってから再度犬を飼っても犬の方が私より長生きすると困ると妻から言われ、鳥猟は断念した。

 近年は私が住んでいる雫石町は鹿・イノシシ・熊が多く出没していることから、もっぱら大物猟に専念している。外来種というにはおかしい例だが、困ったことに鹿・イノシシが著しく増加し、わなを仕掛けても利口でなかなか捕獲が難しい。また餌となる「ブナの実・どんぐり等」は外来種も好んで食べるため、熊は逆に追いやられている。

 特記すべきは、熊は春から夏は食べ物が無い為に人里に出没し、ドラム缶を設置すれば簡単にわなにかかるが、その熊は外来の鹿・イノシシとは違い生息が限られており、餌による増減があるが簡単には増えないことである。故に夏場の捕殺には慎重さが必要ではないだろうか。行政では全て処分せよということで、昨年雫石町内で相当数捕獲し、今年もすでに5頭ほど捕獲しており、他地域を合わせれば相当な数が毎年処分されている。あまりに簡単にわなにかかるので、このままでいけば熊も絶滅危惧種になるのではないかと心配している。狩猟の最高峰といわれる熊猟は、数時間もかけて深山の雄大な景色を見ながら熊を求めて歩き、獲物vsハンターの真剣勝負の一発必中に賭けてゆっくりと引き金を絞るという醍醐味があり、またロマンもある。そして射獲した獲物を余すことなく頂き、昔は1頭獲ればマタギは2日間も皆で集まり酒盛りをしていた。

 現状の全て捕殺処分はやめて、若熊等を放獣しなければ、このままでは生態系に大きな問題が生じる事となるのではないのだろうか。